米津玄師のツイートから見る 人間の成長とは。

エッセイ

先日から騒がれている米津玄師さんの唐突なツイート。
内容は以下のもの。

小学生のころ戯れに行った絵画教室で、同年代の生徒が描いた絵を指導という名目でズケズケと塗りつぶしながら修正した教師をそばで見ていた。その時の「こんな悪人が世にいるのか」と思った記憶が今なお人格の一部として機能してる実感がある。

痛みがなければ理解できないという理由で、暴力を正当なものだと挿げ替えようとすることの浅ましさ。その胸には暴力に耐え切った優秀なケースだけが成功体験として残り、足元に積み上がった失敗には一切目を向けない。自分の指導能力のなさを子供に押し付ける態度でしょうね。

子供ながらの「純粋な表現」が必ずしも美しいとは全く思わないけど、自分には何かができるという過信が才能なんだとすれば、それを叩き折る行為に意義なんてない。

同日に3件のツイートを投稿し、ファンからは心配する声や同調の声があがっていた。
若者らしいツイートに少し「にやり」としながら、同様の時期を過ごした自分の言葉を少し残しておきたいと思った。

過去の経験が自分を作るのではなく、自分がその道を選ぶ

以前心理学の書籍を読んでいて妙に納得した事項がある。
「子供のころに受けた虐待やいじめ、幼心に着いた深い傷が大人になってもその影響を受けて、そういった経験をベースにした人格になる。」というものについて、大人になってもその人格でいようとしたのは誰でもなく自分自身であり、その深い傷をプラスに受けるかマイナスに受けるかは他人のせいではなく、自身が選ぶものである。と書かれている。
つまり、幼少期にひどい大人に出くわしたとして、それを根に持って生きていくのか、それを受け流して生きていくのか、あるいはそれでも自分の道を歩もうとするかは自分自身が選んだ結果であり、その大人の所為ではないのである。
私の兄が、中学時代に嫌々家族旅行に付き合わされたことが大人になっても親への反抗という態度にでてしまうということをぼやいたことがあった。しかしながら、その反抗をしたいと思ったのは誰のせいでもなく自分自身であり、親のせいではないのである。全ては自分が決めた人格であり、他人の所為にするのはお門違いなのだ。

正当性を口にすることで、人の至らなさをさげすむ

これも私には耳が痛いことなのですが、間違っている大人を正当性のある言葉で一蹴することで、自分のストレスの解消を、自分の立ち位置の再確認を、自分は間違っていないという意思表示を…と、すべて自己満足のためだけに、当時私は至らないところを持つ大人をさげすんでいたのだと思います。
今思えば若気の至りであり、ただの悪口なのです。
仏教的に言えば、もしあなたが暴力をふるう大人に出会ったのであれば、それはあなたがそれと同じ因縁を持っているからであり、今世で会うべくして出会った相手なのだそうだ。何が言いたいのかというと、暴力をふるう人間に出会ったあなたは、その相手と同じ因縁(自分も他人に暴力をふるってしまう)を持っているかあるいは前世で逆の立場(前世では自分が相手に暴力をふるっていた)だったというのが仏教的解釈なのだ。仏教では、それに出くわしたのであれば、その相手に対し感謝と謝罪を送ることによってその因縁が消えると言われている。さらにそれを見て自分を見つめなおし反省をすることも必要なのだそうだ。

また、斎藤一人さんに言わせれば、「神様は幸せはくれないんだよ。だけど幸せになるための材料をくれるんだよ。」ということ。つまり暴力をふるう大人に出会うことは幸せになるための材料であり、あなたはその材料によって何かに気づき、考え方を変えることで幸せになれるんだよ。ということでしょうね。
出会うべくして出会った相手なのだから、その相手に対して正当性の言葉で非難するよりは、真摯に受け止め自己を見つめなおす方が良いのかもしれないと、30代の頃、私は考え方をシフトしたのだ。

大人に完ぺきを求める若い世代

なぜでしょうね、いつの時代も20代というのは大人なようで、まだどこか子供で、ときどき無責任に、もちろん年代というよりは個体差もあり、30代でも40代でも同じようなことは言えるのだけれども、比較的若い世代の方がやはり未熟で不完全ながらも大人には完ぺきを求めてしまう、そんな世代だったと思います。私も家族を持つまでは非常に大人にたいして攻撃的で、完璧を求め、ミスを非難し、正当性のある言葉で打ち負かそうとした。まさに至らないのは自分自身であることを理解できずに。

大人になると「言いたいことも言えない」なんてことをテレビやラジオで耳にした時期もあった。また、「言いたいことは言った方がいい」という歌を唄うシンガーもいただろう。しかし大人になるとわかるのだ。
「余計なことは言わない方が得」なのだ。
これまた仏教の言葉なのだが、「口の四悪」というものがある。1:妄語(もうご)嘘をつくこと、2:綺語(きご)奇麗事を言って誤魔化すこと、3:両舌(りょうぜつ)二枚舌を使うこと、4:悪口(あっく)他人の悪口を言うこと。の4つだ。これ以外にも誹謗、妄言(妄語とは異なる)、邪見の言葉や無益の言葉なども気を付けなければならないとされているが、とにかく人を悪く言う言葉や無駄口といった言葉は使わない方が賢いことに気づく。
しかし、私もそうだったが若いころにはとにかく言いたいのである。思ったことは口にしたいのである。その言葉で傷つく人がいようが、自分が正しいと思ったことはすぐに言ってしまうのである。

まとめ

自分の恥ずかしい過去を振り返った記事だったが、やはり若いころは皆同じような道を通るのだと思った。
いい人に出会うか、辛い体験に出会うかは、結局のところ自分自身の行いの結果であり、自分が撒いてきた種なのだとこの年になってわかる。わかるからこそ若い世代の人にも、余計なことは言わない方が生きやすいのだと伝えてみたかった。ああ、これもまた自己満足の記事でしかないのだが。

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