LGBTにおける問題を考える

LGBT

国会議員の発言や、学校・会社などでも時々話題に上るLGBT問題。
小学校・中学校では、それらが「いじめ」につながらないように授業の一環として生徒に問題というよりも受け入れるべき自然現象として教育されています。

先日うちの子供が学校で受けてきたLGBT問題の話を聞いて、今の世代の子たちは懐の深い子に育ってくれそうだ。と感心した反面、また新たな問題も出てきそうだという気持ちになったのでメモとして記事に残そうと思います。

LGBTを受け入れるか受け入れないかは個人の自由という考え

私はLGBTの方々に対して嫌悪感や好感といった感情は全くもっておりませんが、現在の世間の流れである「受け入れるべき問題」という視点で推し進めてしまうのは少々問題があるのではないかと思っています。
といいますのも、人はそれぞれ考え方や文化、育った環境などが異なりますので皆が同じ方向を向くことは皆無というのが前提にあります。
そして、世間がLGBTを受け入れるべきだ、それが愛だ!と唱えることで、「受け入れたくない人」、「理論的におかしい」と思ってしまう人達はマイノリティ扱いされ、逆にいじめの対象となってしまうのではと考えるからです。

LGBTを受け入れられないのは仕方がない

例えば、日本では犬はペットとして可愛がられ、家族同然に暮らしています。
隣の中国へ行きますと、奥地では犬は食用であり、家畜として扱われます。
韓国も同じように犬は食べる生き物として扱われます。最近になってようやく犬を愛でる方が増えてきたというニュースを先日目にしたところです。

育った環境が違うことで、受け入れられない問題というのは往々にしてあります。
動物と一緒に捉えてはいけない!とおっしゃるかもしれませんが、考えの押し付けをされてきた方ならば、考えの押し付けの苦痛さもお判りでしょう。
世の中には受け入れてくれる懐の深い方もいれば、受け入れたくない人もいますし、LGBTに文句を言う人もいます。
しかしながらそれも個人の自由であり、可能であれば受け入れてあげなければならないのかなと最近思うようになってきました。

対立を好むことなかれ

国会議員の「生産性がない」という発言にしても、一昔前ならば「言い方は悪いが、まあ事実なんだよな。」で済まされてきたように思いますが、最近ではここぞとばかりに強く批難されます。
「相手のことを考えてみんなで守っていこうよ」という正義感ある動きに変わってきている感じです。それ自体はとても良い方向性のように思えますが、反面その「正義」によってマイノリティを集団でいじめているという不思議な流れも作り出しています。

昔の人は争いを好まず、「辛抱」強かったといえるのかもしれません。
現代は「辛抱する必要はない戦え」「間違いは悪だ!」と、とらえているのかもしれません。
そう考えると、より攻撃的な人格の方々が増えたのかもしれないですね。

「争いからは何も生まれない」と、経験した世代は影を薄くし、争いを知らない世代が「新たな争い」を体験していくのかもしれません。

LGBTの方々は受け入れてくれる人とだけ付き合えばよい。

結局LGBTであっても、それ以外の人であっても、自分を受け入れてくれる人とだけ付き合えばいいと思うのです。わざわざ反発し合う人と対立して過ごす必要はないんです。
もし、LGBTのあなたを攻撃してくるような人がいたのならば、その人とは関わらないようにしちゃえばいいんです。
だって会社も同じでしょ?自分に合わない上司がいる会社ならば辞めてしまえばいいんです。
根性がないとか、問題から逃げてるとか関係ないですよ。あなたが正しいと思って生きているならば。どうせ他の人の発言なんて無責任でしかないんですから。

「生産性がない」発言にしてもそう、言わせておけばいいんです。だって向こうは「それを理解しない」人種なのだから対立するだけ無駄なんです。「正義」なんかかざして自分がいじめる側になる必要はないんです。
イジメてくるクラスメイトだってそう、わざわざ向こうから寄ってくるなら、もう学校すら行かなくてもいい。勉強なら一人だってできるんです。人権?普通に暮らしたい?いえいえ、LGBTじゃなくてもみんなそれぞれ問題をもって生きていて、みんなの言う「普通に生活」ができる人なんて本当に一握りしかいないんですよ。
わざわざ相手に理解を求める必要も、対立する必要もない。

でも大丈夫、分かりあえる仲間は必ずいますよ。

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