沢山の乗客と駅の階段を登るときに考えていること

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通勤ってとても寡黙ですよね。
スマホでニュースを見て、時には音楽を聴いて、窓の外を見て…
かといって私は友人が隣にいたとしても、朝から話をする元気はないし、仕事で疲れた後に会話する元気ももちろんない。

私は人に合わせられない、人付き合いが苦手なんだと思う。

それは高校のころからずっと思ってたことで、同級生と同じ電車で通学するのが苦痛で、自分だけわざわざ10キロ以上ある通学路を自転車で通った。
とにかく朝は会話をするのが苦手だった。おそらく血圧が低いことが由来するのだと思うのだけれど、こればっかりは自分ではどうすることもできないでいる。

私は寡黙でいる時間、人とは少し違った視点でその情景を見ているのかもしれないと思った。
いや、そもそも人はそれぞれ別々のことを考えているのだから、自分だけということはないのだろうけれど、もし自分と同じようなことを思っている人がいたのならばそれはそれでうれしい。

駅の階段を埋め尽くす人混みの中で

終点の駅に着くと、乗客全員がホームの階段を上りだす。
その人混みの中に私は紛れ込んで身を隠す。

私はこの人混みに守られているんだ。

そんな気持ちで階段を上りだす。
するとふとある言葉が頭をよぎる

人はみんな仏である

仏教で常不軽菩薩(じょうふきょうぼさつ)という方がでてくる。この常不軽菩薩という方はお釈迦様の前世の姿であったとされる人物で、すれ違う人に対して「あなたはいずれ仏様になるお方です。だから私はあなたを軽んじません(軽視しません)」と礼拝された方です。その常不軽菩薩の行いを思い出し、私はこの言葉が頭をよぎったのだと思う。すると

大勢が登る階段が神仏の守護に思えてくる
回りの人々がみな神仏だと思うと、人混みが感謝の気持ちであふれてくる

なんて宗教っぽいことを考えるのだろうと思うかもしれない。でもほんの少し見方を変えるだけで、例えば苦痛に感じていた場所がありがたい場所に感じてくるかもしれない。
それは生きていくうえで見えない苦痛を癒すたったひとつの薬かもしれない。

どうでしょう、通勤時あなたの周りにいる人たちを「神仏」として見てみる価値はありそうじゃないですか?
その日一日が違った世界に見えるといいですね。

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