「ゲイって気持ち悪い」は差別なのか…我々が向かうべき未来とは

エッセイ

先日過去の記事を眺めていた。
昨年の記事、2018年12月18日にアップされた某サイトの『「ゲイって気持ち悪い」日本にもある”無自覚な”同性愛差別』というタイトルの記事である。この記事を読みながら、「あーゲイって100人に3人の割合でいるんだ」なんて傍観者的なことを考えながら記事を読んでいた。
この記事を執筆されているのは、「ゲイだけど質問ある?」で話題の鈴掛 真さんである。

記事の中で「差別とは偏見や先入観などをもとに、特定の人々に対して不利益・不平等な扱いをすること」であると書かれています。
そうか、差別とは先入観などによって真っ当ではない扱いをすることなのか。と素直に私は納得した。
正直、私は何が差別でどこまでが差別ではないのか、明確な境界線がわからなかったし、自分の発言が相手に対して不親切ではなかろうかといつもびくびくしていた。明確な境界線がわかったことで、今後はそういった不安が少しは払拭できるかもしれないと思った。

ただ、差別の明確な境界線がわかったとしても、通常の会話の中で自分が感じたことを隠しながら、あるいは一度意味を咀嚼した後で文を組み立てて相手に話すという技術を私は持っていないので、『世間で騒がれるような差別をうける要素を持っている方々』が目の前にいた場合に、私は不安と責任に押しつぶされて会話などできないのではないかと懸念してしまう。当然差別的な発言はしたくはないし、差別したいとも思わないが、何分無意識で地雷を踏むことだって皆無とは言い切れないわけだから私はそれが怖いのである。

記事中に「差別を絶対なくさなきゃいけない理由」という項目があり、その中身に目を通していて小さな違和感を覚えた。
『男同士がキスしたり手をつないだりするのを「気持ち悪い」と思う場合、それは固定観念から拒否反応が出ている可能性がある、だからゲイにもっと歩み寄ってほしい』『歩み寄りながらも、それでも「気持ちが悪い」と感じてしまうのであれば仕方がない。』『問題はゲイに歩み寄ろうとせず、自分の中の差別意識を放置していることが問題』と提唱していました。

そう、確かに自分は男同士のキスシーンを想像すると何とも言えない気持ち悪さを覚える。こう背中がぞぞぞっとするような、それは例えるのであれば、すりガラスを爪でひっかく時に出る音を聞いたときと同じような感覚になるのだ。だから、固定観念というそんな簡単なものではなく無意識下で体が反射的に反応しているのだ。ただ鈴掛さんは『それは仕方がない』とされている。――では何に違和感を覚えたのかというと『ゲイに歩み寄ってほしい』『ゲイに歩み寄ろうとしないことが問題』という箇所だった。

正直マジョリティであろうとマイノリティであろうと意見が分かれてしまうことは仕方のないことだと思っている。育ってきた環境や国も違えば考え方は絶対的に異なるからだ。日本では食事のマナーとして「くちゃくちゃ」と音をたてることを嫌う、そのわりにそばを「ずるずる」とすする。海外では食事中に音をたてることすらもマナー違反で嫌な顔をされる。どちらが悪いということもなく、そう育ったのだからそう感じてしまうのである。歩み寄って受け入れることも大切だとしよう、お互いの文化を尊重し合うのも必要だと思う、しかしそれは強要されるものではなく、尊重してくれる相手のご厚意によるものである。決して押しつけがましく「こうしてくれ」「ああしてくれ」というスタイルはどうも違う気がしてしまうのだ。

『ゲイに歩み寄ってくれれば払拭できるかもね』『ゲイに歩み寄ろうとしないのが問題』という具合にゲイに対していくらかの拒否反応を抱いてしまう人たちに対して「歩み寄ってくれないあんたらは問題よね」と一方的に言われても、正直ちょっと「わがまま」っぽく聞こえてしまうのです。いえいえ、私はもちろんゲイっていうパーソナリティを否定しませんし、なんなら同級生のゲイと二人で飲んで楽しく話してたような人間ですから、そういった否定的な感情はほとんどもってませんけれど、相手に対し半ば強要的に論してしまうのは炎上の火種になりかねないのではないかと懸念してしまうのです。つまり、『歩み寄らない奴は悪い奴だ』と一方的に責めないであげてほしいのだ。なぜなら、どちらも育った環境が違うのだから、『歩み寄る』という労力を費やすかどうかは自由なのだから。

そう、『歩み寄る』という努力というのは思った以上に労力を要する。それは相手の考え方に対して自分の固定観念の何がずれているのかを過去や経験をさかのぼって分析しなければならないからだ。もちろん、その労力を相手に対して費やしてあげることは『厚意』であり『義務』ではない。だから『歩み寄ろうとしてくれない人』に対して『問題だ!』という強い圧力をかけないであげてほしい。それによってゲイであるあなたが『傷ついた!謝れ!』というのもなんだか相手の気持ちを無視した一方的なわがままに見えてしまう。我々はゲイでなくとも常に他人から他人のモノサシで測られている。つまりゲイでなくとも『差別』はマジョリティにだってあるのだ。マイノリティだから特別なのではないということを考えていかなければならない気がしてこの記事を書いた。

差別はなくすべきだが、なくそうとする運動のなかでまた新たな差別(マジョリティに対する思想の差別)を生んでしまわないようにしていかなければならないのではないだろうか。そう、誰もが傷つかずに話し合えるために『お互いに厚意と感謝』を持てる社会を目指したい。

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※ 鈴掛さんの記事の解釈は私個人の感想からであり、読み方によっては異なる解釈ができるかもしれません。まずは記事本文をご自身で読まれることをお勧めいたします。

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